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駆け出しゲームプランナーの日々を綴ります。

『チャッピー』が示す意識の可能性

先日観た『エリジウム』と同じ監督の最新作、人工知能=AIをテーマにした作品『チャッピー』を観ました。

これまでの同監督の作品は、地球に不時着した宇宙人と地球人の問題を取り上げたり、貧困層と富裕層とで隔たれた世界を格差社会の暗喩として取り上げたり、幾つかの新しい取り組みを映画という形で見せてきましたが、今回は人工知能という、これからの未来に影響してくるであろうテーマに挑戦しています。

題名のチャッピーは、主人公に相当するキャラクターの名前であり、チャッピーは警察で導入され治安維持にまい進するロボットです。そこから、命令されたことだけを実行していたチャッピーは、紆余曲折を経てこの作品のキーとなる「意識」を手に入れます。それは、すなわち、人間のように考え、感じ、実行するということが可能になります。

しかし、チャッピーはギャングに奪われてしまい、強盗を手伝うように教育されてしまいます。子は親を選べない、ということなのでしょうか。純粋なほどに残酷です。

話は変わって「意識」というのものを取り上げているものに『攻殻機動隊』が似ています。こちらは機械でできたからだを乗り換えるシーンが登場するのですが、そこでも、新しく移る体に「意識」を移動させる、といったことをしています。そのほかにも、人体から戦車への意識の移動が描かれた話も存在します。SFではこの意識、というものの可能性を抜きにしては語れないのでしょう。

話はもどって、チャッピーに戻ります。チャッピーにも『攻殻機動隊』のようなシーンが登場します。ここでも「意識」はヘッドギアをバイパスに、人体から機械、機械から機械へと移動します。このような未来を実写の映画で目にすると妙な説得力があります。アニメから映画へ、「意識」というものは目に見えず、作品の枠を超えてきたように感じます。

人工知能が今後、社会で表立つときがきたとき、それがどんな意味をもつのか。この作品はそんな、警鐘をならしているように思いました。

今回の『チャッピー』はこれまでの作品よりも、重い内容でした。

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