少し切ないメリークリスマス〜『戦場のメリークリスマス』を観た話。〜
いまや一般的となった電子音の音楽。
ピコピコ音や、チップチューンと言われるそれは、世界各地で様々な進化を遂げ、1980年代に現れたニューウェーブ音楽は、音楽の可能性を一気に飛躍させ、いまなお鮮明で、独特な輝きを放っている。
U2、ジョイ・ディヴィジョン、ザ・キュアーやデュラン・デュランといったイギリスやアイルランドのアーティスト達が台頭した。
日本でもYMOがその草分け的存在として位置し、今や世界的音楽家として活躍する坂本龍一も、このYMOというグループで高橋幸宏、細野晴臣らと活動していた。
RYDEENや東風、君に胸キュンなどのヒット曲を連発した。
今作の話に戻ると、舞台は1942年、戦時中のジャワ島。
オランダ人捕虜を、日本軍属の朝鮮人・カネモトが襲うという事件が発生し、日本軍と連合軍捕虜の間で動揺が走る。
時を同じくして、英国軍少佐のジャックが捕虜としてやってくる。
これを発端に、日本と西洋の文化が、戦時下という極限状態の中で衝突・交錯していく。
そして、次第にその中で奇妙な友情が芽生えていく。
今作の主演は4人おり、うち3人は俳優が本職ではない。
日本軍軍曹のハラに、ビートたけし。
英国軍少佐のジャックにデビッド・ボウイ。
そして、日本軍大尉・ヨノイに先ほど説明した坂本龍一があてられている。
ビートたけしは今でこそ世界で評価されている映画監督だが、本職はお笑い芸人。
デビッド・ボウイも歌手である。
坂本龍一は言わずもがな。
故に、演技は何処かぎこちない。
坂本龍一に至っては台詞もどこかたどたどしい。
しかし、この妙なぎこちなさが、逆にクセになってしまうというか、この作品の特徴でもある。
戦争映画と言えば、強いメッセージ性で観客に様々と訴えてくるものだが、今作にはそれがなく、大きな盛り上がりもなく物語は始まり、そして収束していく。
なのに2時間飽きずに見れてしまう。
これはデビッド・ボウイの格好良さに、私がただただ魅了されてしまったという個人的な意見もあるが。
結局のところ何が言いたいのか、それを考えると、国や文化が違うと見える世界や景色は全く違う、そういう事なのかと思う。
それは混ざり合わない水と油、陰と陽。
冒頭とエンディングに流れる切ない音楽は、戦時中の数あるドラマのほんの、ワンカットを彩ったに過ぎないのだろう。
でも、それでいい。
この映画はYMOで坂本龍一が奏でた明るく、快活な音楽とは違う、終始しんみりとした音楽が似合うのだ。
また観たくなる一本に出会えたと思う。
これを読んだら「さん」くれろ。〜映画『ピンポン』を観た話〜
「月にタッチするなんて訳ないよ」
橋の欄干の上に立ち、こんな言葉を突拍子も脈絡もなく言ってのけるペコは、一体どんな気持ちだったのだろう。
思春期に訪れる己の存在意義との葛藤か、はたまた強がりか。
映画『ピンポン』は2002年公開の映画。
原作は松本大洋の同名のマンガ。
全5巻という、決して多いとは言えない巻数の中で、主人公の卓球馬鹿・ペコは、幼馴染のスマイル、アクマ、そしてライバルのドラゴンや中国人・コウと卓球を通して、自分と向き合い成長していく過程が描かれている。
その内容の濃さは数あるマンガの中でも突出しており、セリフは常に名言の応酬、ペコ始め、各キャラクター達のアクの強さ、スポーツマンガでありながら、内容は何処かオシャレでサブカルチック。
全55話という話数も不足もなく、丁度良いまとまりを作品世界にもたらしている。
今作の映画は、そんな漫画原作でありながら、窪塚洋介を始め、井浦新、中村獅童、夏木マリなどの豪華俳優陣がキャラクターにぴったりと収まっている。
昨今の漫画原作の映画は、特に実写は2次元を3次元で表現した際の乖離が指摘され、見える地雷、開けてはならないパンドラの匣の印象が強い。
しかし、今作は映画自体の完成度が非常に高く、私自身初めて観たときは原作がある事すら知らず、映画オリジナルだと思っていた。
その後、原作を知り、改めて観直すのだが、不思議と2次元と3次元の乖離している点が見当たらない。
ここがこの映画の凄い所なのだ。
ペコ扮する窪塚洋介も、完全にペコそのもので、全く違和感がない。
また、野球やサッカー、バスケに比べ卓球は地味なイメージもあるが、巧みなカメラワークと編集技術、そして演出で魅せる卓球は、まるで格闘ゲームの切迫したやり取りを見せられているよう。
締めのsupercarの曲もカッコよくて、これが本当に16年前の映画なのかと思うくらいに、新しく、センスに満ちた作品だった。
そんな傑作として印象強い今作だが、未成年喫煙や教師による体罰のシーンもあり、今のテレビでは放映されないだろうと思われるので、そこが非常に残念でならない。
この映画が後世までも、脈々と語り継がれるよう、私も微力ながら強がりを言いたい。
「月にタッチするなんて訳ないよ」。
映画『バトル・ロワイアル』を観た話。~いまこの映画を観る理由~
映画『バトル・ロワイアル』を観ました。
制作・日本
2000年公開 監督・深作欣二
原作は高見広春によるホラー小説。
舞台は極東に存在する全体主義国家・大東亜共和国。
国家元首を総統とするこの独裁国家では、毎年全の中学3年生のクラスから50クラスが選ばれ、お互いを最後の一人になるまで殺し合わせる戦闘プログラムが実施されていました。
以上、原作は日本に酷似した架空の国家を舞台にした内容なのですが、映画は少しちがいまして、
・舞台は大東亜共和国ではなく、詳細は曖昧にしているが架空の「日本」。
・5oクラスではなく、毎年選ばれるのは全国から「1クラス」。
以上のような相違点が実はいくつもあります。
さて、原作のあらすじだけでも相当キツい内容ですが、それを三次元の世界で表現したのですから映画もやはりキツです。
僕も公開当時は小学生で、ビデオかなにかで本作を視聴したのですが、あまりの過激さにトラウマになっていまいました。
銃声、断末魔、血しぶき、そして昨日まで友達だった人達がお互いを殺しあう。
残酷描写に耐性が無かったことと、友達との関係は楽しいものとばかり考えていた小学生には、思春期の少年少女が「生」に必死にしがみつく姿は、まさに「狂気」で、そこから本日までずっと観れずにいました。
でもそれから少しして、子供たちのヒーローも殺し合いを始めました。
そう、『仮面ライダー龍騎』です。
放映当時は友達の中でもブームで、いま思えばあれは「人間が仮面を被って殺しあう」ある種、人間の内側に潜む欲望を描いた番組でした。
あの純粋無垢だった時から10年以上が経過し、改めて過去のトラウマとの対峙も込めて、本日、映画『バトル・ロワイアル』を観たわけです。
改めて観ても、やっぱりキツい。リアルが故に、若者が阿鼻叫喚し、凶器を振り回し死んでいく場面は目を覆いたくなります。
しかし、なんで体験したことのない「思春期の戦争」をここまでリアルに感じてしまうのか。
それは監督の深作欣二が太平洋戦争を経験した世代だったからです。
当時は今では考えられない状況が私たちの住む日本で行われており、それはまさに原作の舞台・大東亜共和国であり、深作欣二の中の『バトル・ロワイアル』の世界そのものだったのです。国家や大人への不信、常に死と隣り合わせ、隣人すらも信用できない(太平洋戦争当時の日本では「隣組」という隣人同士で監視しあい、反乱分子を憲兵に密告することが行われていた)状況を経験し、原作と深作監督の人生が奇跡のようにマッチングしこの作品が生まれたのです。
公開当時はその内容から話題になり、「残酷だ」「過激だ」そんな言葉が独り歩きし、社会現象になりました。
でも、この作品で訴えたかったのは、そんな安直なテーマなんでしょうか。
これは私個人の考えなのですが、少なくとも深作監督はただ映画で人を殺していたわけではないと思います。
それは映画の最後に深作監督は『走れ』という言葉を画面いっぱいに写しています。
ただのバイオレンス映画がこんなことをするのでしょうか。
きっと監督はこの作品で「時に障害があっても、人生を悔いなく生きろ」そう伝えたかったのだと思います。
また、「人間は薄皮一枚隔てたケダモノ」だとも受け取れます。
これは大人になったいまだからこそ、「そうなんじゃないかなぁ」と思えるのです。
そして、そのリアルさに背筋がゾッとしてしまいます。
現在では戦争とは無縁の平和な国・日本。
でもこの国の下敷きには、『バトル・ロワイアル』で描かれていた様な過去があったことを忘れてはいけないと思いました。
心身ともにちょこっと成長した今だからこそ、それが「いまこの映画を観る理由」なのです。
Awakenings inthe Midnight.~目覚めは「夜」にも訪れる~
今回も例のごとく最近観た映画の話です。
今回紹介するのはこちら。
1990年公開、ロビン・ウィリアムズとロバート・デ・ニーロの主演。
『レナードの朝』(原題:Awakenings)。
幼少期に発病した病気がもとで、30年間植物状態からの覚醒を果たした青年・レナード(ロバート・デ・ニーロ)と、レナードの入院する精神病院に赴任してきた医師・セイヤー(ロビン・ウィリアムズ)との交流、1969年に実際に起きた、レナードと同じ症状を抱える慢性神経病患者の集団覚醒と、その”夢”のようなひと夏の出来事を描いたノンフィクション作品です。
原題の「Awakenings」は日本語で「覚醒」を意味します。
きっと、邦題の”朝”というのはここからきているのでしょう。
(”朝”という単語は「覚醒」=「目覚め」の間接的な表現にもとれますね)。
この映画、人間同士の交流を描いた感動作にも見えますが、ここでこの作品を分解してみると、この作品を”感動作”たらしめる”見えない背景”が2点あることに気づきました。
以下にまとめてみました。
・レナードが目覚めたのが”朝”ではなく、”夜”であること(邦題は『レナードの”朝”』なのに)。
・物語の季節が”夏”であること。
1.目覚めたのが”朝”ではなく、”夜”であること
まず初めに、レナードは服用していた薬の影響もあったとは思いますが、真夜中に30年の植物状態から覚醒します。
一見すると、レナードが目覚める時間帯は別に朝でもよかったはず。
しかし、ここで目覚める時間帯を夜にすることに意味があるのです。
注目すべきはレナードが”夏の間だけ目覚めていたこと”。
前述に私は「”夢”のようなひと夏の出来事」と書きましたが、これはレナードにとって夢のような時間だったのです。
では、夢を見るのはいつか。それは夜です。
夢は寝ているときに見る一瞬の出来事です。きっと、一瞬の出来事を、短い夏の出来事、そして夢というダブルミーニングとして置き換えることで、観る人により強い印象を潜在的に植え付けているのです。
2.物語の季節が”夏”であること
レナードが目覚めた季節は夏。これも春夏秋冬、四季のいつでもいいのかもしれません。
しかし、これも夏だから意味があるのです。
それは、夏が「生命が最も輝く季節」だからです。
緑は青々と生い茂り、太陽は高く、青空は大きな両手を広げて、すべての生命を照らしています。
レナードは、そんな季節に目覚め、まるで長いこと土の中にいた蝉が、7日間だけその命を輝かせるようなイメージにつながるのです。
あくまで感覚的な問題かもしれませんが、ではこれが春だったら。
”春”は「生命の芽吹き」こそあれど”輝き”ではありません。
”秋”は生命の隆盛がひと段落し、寒い冬へと向かう季節。
”冬”は寒い寒い、生命の幕切れを連想させるので、これも違う。
となると、やはり”夏”が正解なのです。
以上の2つの”感動作たらしめる理由”は劇中ではなんの説明もされません。
あくまで、受け手に生きることの素晴らしさ、レナードの人生賛歌をより印象的に感じ取れる要素として設定されています。
以上の要素を、実際に今作を鑑賞して感じてみることを私は強くオススメします。
そうすることで、作品を観る楽しみ方が、またグッと拡がりますよ。
最後のまとめに、レナードは劇中でいかに人生が素晴らしいかを説いています。
それは30年、遠い場所にいたレナードだから感じることのできた感覚かも知れません。
我々は朝起きて、昼働いて、夜に寝て、また朝起きて...。
そんな生活のサイクルが当たり前になっています。
レナードは、そんな我々こそ死んでいる、そう言っています。
レナードにそう言われてしまうセイヤーは、もしかしたら我々の象徴なのかも知れません。
「生」と「死」。これは全く違う次元にあるようで、実はお互いに混同するカオスな存在でもあります。
一つの物語から、「生きること」、「死ぬこと」の問いかけを今作は我々にしています。
当たり前なんて、実際はないんだよ、と。
レナードの朝は夜でしたが、きっと人間皆、朝はいつでも来るのです。
何か行動を起こすとき、それが朝であり、生命がもっとも輝く瞬間の始まりなのです。
『T2:トレインスポッティング』に見る、”20年後の自分たち”。
わたくし、これまで沢山の映画を観てきたわけですが、とりわけ好きな作品があります。
それは、1996年公開のイギリス映画『トレインスポッティング』です。
スコットランドのエディンバラで、薬におぼれて怠惰な日々を過ごす若者たちの青春群像劇です。現在では様々な作品に出演しているユアン・マクレガーが主演を務め、彼の出世作にもなった一本です。
当時のヤク中青年が、後にジェダイの騎士になるなんてこの時は誰も思わなかったでしょう・・・。
そんな今作ですが、20年の時を経て、今年ついに続編が公開されたのです。
これは吉報!とばかりに公開を楽しみにしていたのですが、諸事情あり映画館にはいけすじまいで、結局、ブルーレイの発売を待つことになりました。
そして、今回。私もついに念願だったブルーレイを手に入れ、ここまでネタバレを観ずに、まるで貞操を守る純情な少年のような心で、本作を鑑賞したのでした。
前作から20年経ったこスコットランド。そして、変わらずに流れ続ける、主人公とその友人らの20年という時間。
老いが進み、自分たちを取り巻く環境が変わり、『変わらないもの』と『変わったもの』が画面越しに私に伝わってきました。
キャストの顔には皺が増え、白髪交じりの頭、そして中年体型と落ちる体力。
でも、その瞳にはらんらんと、20年前と同じ、生命力にあふれた輝きがありました。
そう、20年たった今でも、キャストの中には前作の登場人物たちが存在したのです。
前作のラストに主人公・レントンは薬物の取引で得た大金を持ち逃げし、その結果、友人らとの関係には深い溝が生まれてしまいます。
その現状を引き継いで始まる本作で、どう4人が以前のような関係を取り戻していくのか、また青年から中年になった彼らはどんな人生を選ぶのか。
このシリーズのスローガンにもなっている「人生を選べ」という言葉。
人は常に選択の連続の中にいます。物を食べるのだって、買い物だって、日々の生活は細かい選択の連続なのです。
本作は彼らが選んできた人生と、これから選ぶ人生にも注目できます。
鮮やかな映像に彩られ、センスのいい音楽とともに、中年4人の20年目が流れていきます。そして、ラストはちょっぴり感動。
前作が若気の至りと、希望にあふれた明日への船出とするならば、本作は長い旅から帰ってきた船の帰還とでもいいましょうか。
百聞は一見にしかず、前作も含め、一度観てみましょう。
前作のオマージュや、ファンサービスも豊富ですし、過去と現在の交差を上手く利用した映像が妙にリアルで面白いです。
これを観た後、はたして20年後の自分はどうなっているだろう、友達との関係は、家庭環境は、そして社会はどう変わっているだろうとぼんやり考えてみました。
自分は一体、どんな人生を選んでいるのだろうかと・・・。
劇場版『仮面ライダーアギト PROJECT G4』を観た話。
久しぶりの投稿になります。
前回から1年以上の時間が空いてしまいました。
さて、そんな久しぶりの投稿で扱うネタは映画です。
しかも大好きな「特撮モノ」。
タイトルにもある通り、今回取り上げるのは平成仮面ライダーの2作目にあたる、『仮面ライダーアギト』。その劇場版です。
現在、平成仮面ライダーは相当数存在し、作品ごとにライダーの特徴が違うので、映像表現の進歩とともに、扱うテーマや時代背景の違いも観ていて面白いものです。
今回のアギトは平成ライダーの中でも二作目と初期の作品にあたるので、映像や劇中の小物は現在に比べ粗があるのも事実です。
しかし、そこで「古いから観ない」という選択肢を持つのは大変もったいないことです。
併せて、「特撮なんて、子供の観るもの」といった固定概念もここでは取っ払っていただきたい。
今作は観ていれば、そんな考えは杞憂なものだと分かってきます。
今作のストーリーは、警察組織の使用する、対未確認生命体の強化スーツ「G3システム」と、陸上自衛隊が開発した「G4システム」をめぐる攻防が展開します。
そこに超能力といったオカルト要素が混ざり、更に、平成ライダー初期の”いい意味でのリアリズム”、”無理のない物語展開(変に世界の破滅とかを含まない)”が加わることで、今作は単なるテレビ番組の延長ではなく、一つの映画作品として、「特撮」・「子供向け」・「ヒーロー番組」の壁を越え、映画という”エンターテイメント”として独立しています。
では、今作の魅力の話に移りましょう。
今作のキモのG4システムは、装着者に大きな力を与える代わりに、生命を縮めるような負荷を与えるという、そういう設定が大好き人にはたまらない代物です。
しかも、単にG3システムとG4システムの攻防、というだけではなく、警察と自衛隊の組織間の代理戦争ともとらえることができます。
警察組織と軍事組織の対立構図は何とも燃えるものがあります。
近年の仮面ライダーでは実在する組織、特に軍事に至っては存在が皆無なのですが、私が考えるに、ある種、軍事組織の存在が物語の過剰な飛躍を抑える”セーフティ”にもなっているのでしょう。それが先に述べた”いい意味でのリアリズム”を構成する大事な要素になっているとも考えられます。
また、「特撮=子供の観るもの」というイメージも、今作の持つバタ臭い人間ドラマに、子供が観たらトラウマになるような場面、重厚な画面作りといった諸要素で一切気にならなくなります。
ここまでくると、むしろ大人向けでは?
仮面ライダーという永遠のヒーローが持つ力、それを並みの人間が扱うとどうなるか、それを互いに性質の違う戦闘兵器で表現しているのです。
そして、ただかっこいいだけに見えていたヒーローの背負う宿命の重さ、力を得る代償も見ようとすれば様々な場面で解釈として受け取ることができます。
今から10年以上も前のヒーロー映画ですが、当時子供だった大人が観ると受け取り方はきっと違うはず。
私自身、今回が2度目の鑑賞だったのですが、当時とは全く違う余韻がありました。
内容、人物やライダーの造形、戦闘シーンに至るまで現在でも引けを取らない作品でした。
古いから観ない、子供向けだから観ないは今回はナシで!
この映画は事件だッ!!
ゲームに流れる「島時間」
やってきました!題して「クロノクロス回」。と、勝手に命名。